中国シルクロードの旅

シルクロードへの添乗記を通して中国いやシルクロードを語ってまいります。

シルクロードイシククル湖

シルクロード
井上靖墓前に西域の石…キルギス顧問がイシククル湖から

天山山脈の北側にあるイシククル湖は、シルクロード の要所として栄え、湖底には騎馬民族の都が沈んでいると言われる。唐代の僧・玄奘三蔵の旅行記「大唐西域記」でも言及されている。西域の歴史に造詣(ぞうけい)の深い井上は、65年と68年の2回、同湖行きを試みた ...

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日本のシルクロード

日本では、奈良の正倉院に残る数多くの中国製、ペルシア製の宝物や、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人が日本に来朝したことに関する記録などがある。当時の日本は唐代の東西交通路に連なっていたと認識されており、摂津国の住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。

日本では学校教育でシルクロードを取り上げてはいたが、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHKが1980年に放映した「NHK特集 シルクロード(絲綢之路)」によって一躍シルクロードの名は有名になった。日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタン、イラン、トルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言っていいほど「シルクロード」という言葉が記されている。特に中央アジア(敦煌〜サマルカンド)といえばシルクロード、という発想は非常に強い。

しかし同じ1980年頃、一般へのシルクロードという語の膾炙と対照的に、歴史学界では「シルクロード」の概念を巡って論争が戦われていた。すなわち、日本では戦前に中国史研究の延長として始まった中央アジア研究は、漢文を史料として用いることから必然的に、仏教伝来史、東西交渉史、中国西域経営史などのかたちを取り、シルクロード研究の重要性を強調してきた。それに対し、戦後になって成長してきた当時の新進中央アジア研究者たちは、彼ら自身が用いる中央アジア人の書いたテュルク語、ペルシア語などの史料に立脚し、旧来の研究の中央アジアを貿易中継点に過ぎないかのごとく見る視点、いわば「シルクロード史観」を批判したのである。

「シルクロード」概念の批判者によれば、現地の人々が残した記録には中国や東西交易についての話題はほとんど触れられておらず、したがって中央アジアの内側からの世界観では「シルクロード」に類する概念は存在せず、現地人には中央アジアを貫く東西交通路の存在はほとんど意識されていなかった、という。むしろ彼らの社会生活の中で重視されていたのは、オアシス都市の定住民と草原の遊牧民という中央アジアの住民たちの間で繰り広げられる関係であり、正しい中央アジアの歴史理解のためにはシルクロード史観を脱して現地人による記録を中心に据えた研究を行わなければならないことを批判者たちは訴えた。

この論争は結局、結論が出ないまま終息していくが、論争の影響もあってか最近は日本の歴史学界でのシルクロード研究は奮わなくなりつつある。現在では「シルクロード」という言葉を「括弧(カッコ)付き」で用いる研究者も少なくない。

日本国内においても、幕末から明治時代、八王子を集荷地とし横浜港の輸出を結び最大の貿易商品絹を運ぶ街道として、「絹の道」が存在していた。現在ではその多くが町田街道と経路を同じにする。歴史や交易の意味合いから考察する限り、シルクロードとは直接的な関わりはないと思える。wikipedia

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